FC2ブログ

記事一覧

師の神足 zinsoku なり

正法眼蔵 行持 ( 96 )この因縁 innen は、人天 ninten みなしれるところなり天龍 ten-ryu は、師の神足 zinsoku なり俱胝 gu-tei は師の法孫なり馬祖道一禅師のもとで坐禅を学ばれ師を離れ、一人深山に入り三十有余年、静かに坐を組まれた法常禅師そして天龍禅師は、この法常禅師から坐禅を学んでいます俱胝 和尚は、この流れから坐禅を学ばれた方です八世紀から九世紀日本史では奈良平安時代電気ガス水道、車も電話も...

続きを読む

梅子熟也

正法眼蔵 行持 ( 95 )師いはく「 我祗管 gasikan 即心是仏 」この道をもちて馬祖に挙似 kozi す馬祖いはく「 梅子熟也 」お品書きの名称が、どう変わろうが法常禅師は、「 私はただ 即心是仏 」では、こうだったらどうでしょうお品書きの名称が、非心非仏にかわりました法常禅師は、「 はいそうですか、では私はただ非心非仏 」法常禅師にとってお品書きの名称はどうでもよかったライスカレーでもカレーライ...

続きを読む

我祗管 gasikan 即心是仏

正法眼蔵 行持 ( 94 )あるとき、馬祖 baso ことさら僧をつかはしてとはしむ「和尚そのかみ馬祖を参見 sanken せしに得何 tokuga 道理、便住 binzyu 此山 sizan なる 」師いはく「 馬祖われにむかひていふ、即心是仏 すなはちこの山に住す 」僧いはく「 近日 kinzitu 仏法また別なり 」師いはく「 作麽生 somosan 別なる 」僧いはく「 馬祖いはく、非心非仏 hisin-hibutu とあり 」師いは...

続きを読む

枯木 koboku 、寒林に倚 yo る

正法眼蔵 行持 ( 93 )つひに僧に命じて師を請 syo するに出山せず偈 ge をつくりて答するにいはく「 摧残 saizan せる枯木 koboku 、寒林に倚 yo る幾度 ikutabi か春に逢うて心を変ぜず樵客 syo-kaku 、之 kore に遇うて猶 nao 顧 kaeri みず郢人 ei-zin 、那 nan ぞ苦 nengoroni 追尋 tuizin することを得ん 」つひにおもむかず法常禅師に山を下りて来るよう斉安国師は使いを送りますしかし法常禅師は、山を下りる気...

続きを読む

それよりのち消息 syo-soku をしらず

正法眼蔵 行持 ( 92 )この僧、あやしむこころありかへりて塩官に挙似 kozi するに塩官いはく「 そのかみ江西 ko-zei にありしとき一僧を曾見 zoken すそれよりのち消息 syo-soku をしらず莫是 makuze 此僧否 sisohi 」馬祖道一禅師のもとで坐禅を学ばれ師を離れ、一人深山にて静かに坐を組まれた法常禅師馬祖禅師のもとにおられた時同じく馬祖禅師のもとにおられた斉安国師は三十有余年前、法常禅師にお会い...

続きを読む

随流去 zui-ryuko

正法眼蔵 行持 ( 91 )この僧またとふ「 出山路 syutu-sanro 向什麽 kosimo 処去 syoko 」師いはく「 随流去 zui-ryuko 」しゃんとお坐りになるため頭頂に鉄塔を置くそのような坐の生活を三十幾年この法常禅師に、道に迷いし僧が問います「 ここへ来られて幾年になられるのか 」「 山河、春目覚め秋静まれり 」「 この山を下るには、どうすればいいでしょう 」「 水の流れに、沿って行けばいい 」....

続きを読む

只見 siken 四山 sizan 青又黄 seiyuko

正法眼蔵 行持 ( 90 )すなはちとふ「 和尚この山に住してより  このかた、多少時也 tasyo-ziya 」師いはく「 只見 siken 四山 sizan 青又黄 seiyuko 」............................................................奥村土牛「吉野」ぼやぼやしないよう頭頂に鉄塔を置き、しゃんとお坐りになられているその生活を単身三十有余年この法常禅師に道に迷いし僧が問います「 この山にお住まいになられて、どれくらい...

続きを読む

かくのごとくして年月を経歴 kyo-ryaku するに

正法眼蔵 行持 ( 90 )かくのごとくして年月を経歴 kyo-ryaku するに塩官 en-kan の会 e より一僧きたりてやまにいりて拄杖 syu-zyo をもとむるちなみに迷山路 mei-sanro してはからざるに師の庵所にいたる不期 hugo のなかに師をみる深山湖畔に草庵を構え坐して微動だにせずこの生活を続けること三十有余年ある日のこと杖によい木を探して山に入りし僧道にまよい法常禅師の草庵に至れり....

続きを読む

死にいたりて懈惓 kegen なし

正法眼蔵 行持 ( 89 )その塔、いま本山にあり庫下 kuka に交割 kokatu すかくのごとく辨道すること、死にいたりて懈惓 kegen なし.......late 13th century頭頂に鉄の塔を載せ気迫を維持して落ちないように保つこのような坐禅を単身三十有余年続けられた大谷選手はすごい方だこれとは全く違う領域で群を抜いておられるこの鉄の塔は今も大梅山護聖寺の庫院にあります法常禅師はこのような坐禅を死す日までお続けになられ...

続きを読む

鉄塔一基を頂上におく

正法眼蔵 行持 ( 88 )師の坐禅には、八寸の鉄塔一基を頂上におく如載 nyo-sai 宝冠 hokan なりこの塔を落地却 rakuti kyaku せしめざらんと功夫 kuhu すれば、ねぶらざるなりインドや中東の方が頭の上に桶を載せて、水を運ばれる水道が完備した今の日本ではありえない風景ですしゃんとバランスをとってないとせっかく汲んで来た大事な水がいっぺんに、大地の潤いになっちゃいます命令されてするならパワハラですが自ら...

続きを読む

四山 sizan 青又黄 seiyuko のみをみる

正法眼蔵 行持 ( 87 )坐禅辨道 ben-do すること三十余年なり人事 nin-zi たえて見聞 ken-mon せず年暦 nen-reki おほよそおぼえず四山 sizan 青又黄 seiyuko のみをみるおもひやるは、あはれむべき風霜 hu-so なり法常禅師は大梅山に草庵を建て一人坐禅の生活を続けられたその年月三十有余年宇宙飛行士が、ある惑星に不時着し三十有余年、人の世と音信不通な生活送られたに似てます風光明媚な春秋はともかく厳冬期はさ...

続きを読む

池に荷 ka おほし

正法眼蔵 行持 ( 86 )ちなみに大梅山の絶頂にのぼりて、人倫 zin-rin に不群 hugun なり草庵に独居す松実を食し、荷葉 kayo を衣とすかの山に小池あり、池に荷 ka おほし蓮の花咲く小さな池その前に草庵を建て、一人住む食するものは、ほとんど鳥さん達と同じそうして静かにお坐りになられてるどれだけこの方へ天地神明が栄養をお送りになられていたのでしょう....

続きを読む

即心是仏

正法眼蔵 行持 ( 85 )かつて馬祖 baso の会 e に参じてとふ「 如何是仏 nyoga-zebutu 」と馬祖いはく「 即心是仏 sokusin-zebutu 」と法常このことばをききて言下大悟 gonka-taigo す法常禅師 Ho-zyo zenzi が馬祖 baso 禅師の坐禅道場で静かにお坐りになられてる傍目にそのお姿は、静止してて水面静まりけり、死人のように見えますその死んだ水面に、天地が語りかけます陽光星辰は一瞬も滞らず、その歌を奏でます...

続きを読む

護聖寺 gosyozi を草創 soso す

正法眼蔵 行持 ( 84 )大梅山 daibaisan は慶元府 keigenhu にありこの山に護聖寺 gosyozi を草創 soso す法常禅師 hozyo zenzi その本元 hongen なり禅師は襄陽人 zyo-yonin なり大梅法常禅師Dai-bai Ho-zyo zenzi 七五二~八三九八世紀から九世紀、約1,200年前の中国の方です日本はと言うと、奈良平安時代スマホライフな現代からみると大昔です「 歴史 」を書かれたギリシャのヘロドトスこの方は紀元前5世紀に生...

続きを読む

徧界 hen-kai 一叢林なり

正法眼蔵 行持 ( 83 )入之 nyu-si 一叢林 iti-sorin なり出之 syu-si 一叢林なり鳥路 tyo-ro 一叢林なり徧界 hen-kai 一叢林なり多くの修行僧が何も語らず、坐禅堂にお坐りになられてる静かな森林に立ち並ぶ古木のようです「 ここにおられる方々は唖ですか 」こう問えるのは、その方が身体の中や身体の外におられる時ですしかし目の前におられる修行僧は身体の中にも身体の外にもおられません瞬間瞬間坐相という形を整...

続きを読む

あやしむことなかれ

正法眼蔵 行持 ( 82 )行持の寸陰sun-in を可惜許 kasyakuko なりと参学すべし不語を空然 ku-nen なるとあやしむことなかれ振り返ってみれば貴重な時だったでもその時は、「 何か手応えがないなぁ 」そうは感じられないものである中国であれ日本であれ宗教実業家ではなくシンプルに坐禅に親しみを覚えた方はどんな 「手応え」 を感じておられたのか求道の修行僧にあらずども聞いてみたいとろである「 おられる おら...

続きを読む

われに不知なり、われに不会 なり

正法眼蔵 行持 ( 81 )不離叢林の行持、しづかに行持すべし東西の風に東西することなかれ十年五載の春風秋月、しられざれども声色 syosiki 透脱 todatu の道ありその道得 dotoku 、われに不知 huti なり、われに不会 hue なり多くの修行僧が坐禅堂に会し静かに壁の前に坐っています、荘厳なるものです西欧の修道院では、日々早朝礼拝堂に厳粛なる讃美歌が、静かに響いています共に人のわざとは思えない荘厳さです「 こ...

続きを読む

得恁麽なりとしらざらんは、あはれむべき自己なり

正法眼蔵 行持 ( 80 )至愚 sigu のみづからは不唖漢 huakan をしらず、不唖漢をしらせず阿誰 asui か遮障 syasyo せざれども、しらせざるなり不唖漢なるを、得恁麽 toku-inmo なりときかず得恁麽なりとしらざらんは、あはれむべき自己なり趙州 zyo-syu 禅師 120年の生涯どれだけの時間壁の前で、静かにお坐りになっておられたことか「 あの古仏の道場には多くの  修行者が集まってるが、みな唖ではないのか  」...

続きを読む

不離叢林

正法眼蔵 行持 ( 79 )しかあれば、行持の至妙 simyo は不離 huri 叢林 sorin なり不離叢林は脱落 datu-raku なる全語 zengo なり。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。上村松園他に誰もいないところで、一人声をあげて歌う協調という一面はあるけど、みんなで声をそろえて歌う「 どちらも楽しそうですね! 」坐禅は形ゆえ「 詩歌とは異なジャンルだろう 」これがどっこい、造形は...

続きを読む

仏 butu 道 do 声 syo をきかざらんは

正法眼蔵 行持 ( 78 )仏道かくのごとし仏 butu 道 do 声 syo をきかざらんは不語の不唖漢なる道理あるべからず「 仏道の声とは、どのようなものだろう ? 」仏教の書を読む多くの人が、そう思います誰かがそこで何かをなされたそこでそのような会話がなされたこれは読み進んでいてもイメージとして理解出来ます「 あのお店のお蕎麦、とても美味しかったですよ! 」日常の会話でこれで違和感を感じることはありませ...

続きを読む

不語なりといへども

正法眼蔵 行持 ( 77 )これ行持をしめすなりしるべし、十年五載の不語おろかなるに相似 sozi せりといへども不離叢林 huri-sorin の功夫 kuhu によりて不語なりといへども唖漢にあらざらん五年十年、何も語らず壁の前に坐り続ける愚かにもほどがある、そのようにしか見えません「 私は何も語りませんが ・ ・  世界は、語る語らないどころじゃありません 」静かに坐して工夫を重ねる修行者の身に世界は己の秘密を...

続きを読む

叢林 sorin を離れず

正法眼蔵 行持 ( 76 )あるとき、衆にしめしていはく你 nanzi 若し一生 叢林 sorin を離れず不語 hugo なること十年五載 gosai すとも人の你を喚 yo んで唖漢 akan と作すことなからん已後 igo には諸仏もまた你を奈何 ikan ともせじ............................................................下村観山ある時、趙州 zyo-syu 禅師はこのような教示をなされたあなたが一生、この坐禅の行を離れず五年十年と何も語らな...

続きを読む

恋慕すべき操行 sogyo なり

正法眼蔵 行持 ( 75 )まことに上古龍象 zyoko-ryuzo の家風なり恋慕すべき操行 sogyo なり八十歳まで、探求の旅を続けられそれから四十年間、後進の指導にあたられた趙州 zyo-syu 禅師ほとんど食さなくても、お元気であられたほんとうにお慕い出来る方とはこのような方だ趙州 zyo-syu 禅師のどこが素晴らしいのでしょうほとんど食さなくても、お元気であられるこれは、精神が心魂を完全に掌握して心身が平安だというこ...

続きを読む

常住 zyo-zyu に米穀 bei-koku なし

正法眼蔵 行持 ( 74 )四十年のあひだ、世財をたくはへず常住 zyo-zyu に米穀 bei-koku なしあるいは栗子 risu 、椎子 suisu をひろうて食物にあつあるいは旋転 sen-den 飯食 bon-ziki す..................................................「 郷土早春風景 」 小野竹喬八十歳まで、探求の旅を続けられそれから四十年間後進の指導にあたられた趙州 zyo-syu 禅師趙州禅師は金品を蓄えませんそれゆえ、趙州禅師の道場に...

続きを読む

白衣の観音様

白衣の観音様通説の意味から離れます白い衣全身白づくしの衣をまとうは昔の世では至難の事でしょうしかし、白い衣をまとわれてるこのような表現をお使いになられてるこれは衣にあらず身の輪郭の事だと察せられます....

続きを読む

瞳の表面で

身体の輪郭線 2春は向こうから、こちらへやって来て下さる古来、禅僧のスタンスはこの 「 待つ 」 にありどこでお待ちに、なっておられるのか瞳の表面でお待ちになられてる....

続きを読む

横山大観先生の「 朦朧(もうろう)体 」 

身体の輪郭線 1横山大観さん(1868~1958年)輪郭線を描かず、色彩を重ねたりぼかしたりそこから圧倒的世界が立ち現れましたこの表現方法は当初「 朦朧(もうろう)体 」 と酷評されます墨で絶妙な輪郭線を描くことこれが日本画の核心だったから....

続きを読む

版木に彫刻刀で線を引く

十 指 禅 ( 14 )いにしえの方々は坐禅を幾十年探求なされたただ、じっとしているだけですまったくもって、生産性ゼロであるこのように判断するのが人情ですただじっとしてる、それだけでしたらそうかも知れませんしかし禅僧の方々が、ぼぉ~としてたそうとは考えられません坐禅、坐相と言う輪郭線を描いていたまるで版画の世界で、版木に彫刻刀で線を引くそんな職人さんの緻密さでそれが何か意味あるのですか?そう当然問...

続きを読む

内界と外界が、浸透しあうところ

十 指 禅 ( 13 )十 指 禅 と言うテーマで進めて来ましたこれは、指先に、身体の端に居するこれを強調するためですノヴァーリス ( Novalis 1772 - 1801 ) が述べられた「 内界と外界が、浸透しあうところ 」これを思惟すれば国語として扱えば、一秒もかかりませんこれを現実の身体において、この文意を読み解くそうなると、一秒が吹っ飛んで、幾十年になってしまいます....

続きを読む

いまだ八旬にいたらざらん

正法眼蔵 行持 ( 73 )いまだ正法正伝せざらん余人 yonin は、師よりもかろかるべしいまだ八旬にいたらざらん余人は、師よりも強健なるべし壮年にして軽爾 kyoni ならんわれらなんぞ老年の崇重 su-tyo なるとひとしからんはげみて辨道 bendo 行持 gyozi すべきなり八十歳まで、探求の旅を続けられそれから四十年間後進の指導にあたられた趙州 zyo-syu 禅師はるか高みにおられるとは言え私達はそのスタート地点の、八十歳...

続きを読む

諸人これを古仏といふ

正法眼蔵 行持 ( 72 )趙州 zyo-syu の趙州に住 zyu することは八旬 hati-zyun よりのちなり伝法よりこのかたなり正法 syo-bo 正伝 syo-den せり諸人これを古仏 ko-butu といふ趙州 zyo-syu 禅師 が、趙州の観音院に住したのは八十歳を超えてからのことです南泉 nan-sen 禅師のもとで正しい坐禅の意味を見出されそれを継続体現なされた人々は、「 いにしえの仏 」 と讃えました....

続きを読む

仙台は昨日最低-4.5 最高-7.5℃このような日はめったにありませんまったく空気の感じが、違いました北極に面したロシア北部の方々同じ地球にお住まいとは言えその日々、生きてる世界は別の星のようかも知れない....

続きを読む

やさしさに包まれたなら 

本日はこの冬 最強の寒波が到来水道管が凍結しないよう対策が必要でしょうかユーミンの曲「 やさしさに包まれたなら 」このように寒い日は自分もそうありたいと思いますいにしえの禅僧方は暖房もないような所で静かに坐しておられたよっぽど気力体力が優れておられたそれもあるでしょうがその方々は「 やさしさに包まれていた 」だからへっちゃらだったんだそう推測されるところです....

続きを読む

元気な内に

十 指 禅 ( 11 )次々いろんなことが起こります輪廻転生は予感も出来ませんが早晩この身体から退去することになるたぶんそうなるでしょうそうなった時ではなく元気な内に、その感じをつかむこの動機がはっきりすれば修行は確固たるものになってゆく先人方が、幾十年の修行をなしえたこれが基調かと....

続きを読む

境に消え入る

十 指 禅 ( 10 )「 出身の活路 」 という言葉身体にくみしない世界にもくみしない皮膚と空気の境に消え入るいかにも、活路です....

続きを読む

出身の活路

十 指 禅 ( 10 )「 出身の活路 」 という言葉があります心を身体から外出させず身体と外の、境に止めるそんな微妙な出身の活路独特な感じがします....

続きを読む

圧倒的美を伴って

十 指 禅 ( 9 )「 魂の座は、内界と外界が触れ合うところにある 」ノヴァーリス ( Novalis 1772 - 1801 )The seat of the soul is where the inner world and the outer world meet.Novalisもしそうなら日々の風景は圧倒的美を伴って流れて行くのですから私達の内面が貧しくなる事などありえないのかもしれません....

続きを読む

内でもなく、外でもない

十 指 禅 ( 8 )瞳の表面指先の皮膚確かにそこは私達肉体の限界点ですそこから向こうそこからこちらです静かに心を静め私達がこの境界面に立つ時どんな感じをうけるでしょうか内でもなく、外でもない独特の印象を受けますここに私達の魂の座があると言うならまさに魂は、この世のものではないという印象です....

続きを読む

視力は、瞳の表面におられる

十 指 禅 ( 7 )「 魂の座は、内界と外界が触れ合うところにある 」ノヴァーリス ( Novalis 1772 - 1801 )The seat of the soul is where the inner world and the outer world meet.Novalis内界と外界が触れ合うところ視力においては、瞳の表面? と言うことでしょうか?壁の前で坐禅をする、それゆえ 「 面壁坐禅 」 と言われます何か窮屈な感じがしますが視力は、瞳の表面におられるので、目の前の壁は気にならな...

続きを読む

如来

十 指 禅 ( 6 )「 魂の座は、内界と外界が触れ合うところにある 」 ノヴァーリス ( Novalis 1772 - 1801 )The seat of the soul is where the inner world and the outer world meet. Novalis瞳においては、どうでしょうか ?3cm先であれ、1cm先であれ、そこは外界です瞳の内界というと、もう頭の中です内界と外界が触れ合うところ ?それは瞳の表面? となるでしょうか確かに、瞳の表面に安住するなら美...

続きを読む

八十歳になった時

正法眼蔵 行持 ( 71 )かくのごとくして南泉 nan-sen の道を学得する功夫 kuhu すなはち二十年なり年至 nen-si 八十のときはじめて趙州 gyo-syu 城東 観音院に住して人天を化導 kedo すること四十年来なりいまだかつて一封の書をもて檀那 dan-na につけず僧堂おほきならず前架 zen-ka なし、後架 go-ka なしあるとき牀脚 zyo-kyaku をれき一隻 i-syaku の焼断 syo-dan の燼木 zin-boku を縄をもてこれをゆひつけて年月を...

続きを読む

I wonder where in his body he felt this richness.

十 指 禅 ( 5 ) 中国は唐の時代 多くの方が幾十年と坐禅を探求なされました そして千二百年の時間がながれ 私達は次々と情報を消費して日々を暮らしています それらの方々は、まったく違う時間を過ごされた そのように感じます The Tang Dynasty in China Many people pursued zazen for decades. And a thousand and two hundred years passed. We live our lives consuming one piece of information after another. I ...

続きを読む

"this side" and "that side"

十 指 禅 ( 4 )日本に住んでると国境を意識すること、まずないなぁそんな感じがしますLiving in Japan, I feel that we are rarely aware of national borders.たまに海を見ても、「海は広いなぁ!」 そんな感じですSometimes when I look at the ocean, all I can think is, "The ocean is so big!" is all I feel.ヨーロッパには四方を他国に囲まれてる国、幾つかあるでしょうかHow many countries in Europe are surrou...

続きを読む

He extends that will to every fingertip of his body.

十 指 禅 ( 3 )あの温泉に入ると、とても身体が温まりますこれは、聞いただけでその内容が理解出来ますでは、これはどうでしょう ?「 魂の座は、内界と外界が触れ合うところにある 」 ノヴァーリス When you take a bath in that hot spring, it warms you up very much!Just by hearing this, you can understand what it means.But what about this?「 The seat of the soul is where the inner world and the out...

続きを読む

頭の中で展開するものにはない美しさ

十 指 禅 ( 2 ) 見たり聞いたり、思いが浮かんだり、何か感じたり一日の中、大体は頭の中でそれらは展開してるそんな印象を受けますI see things, I hear things, I have thoughts, I feel things.They are unfolding throughout the day, mostly in my head.I get that impression.一方、このようなシンプルな手の動きでもとても美しいと感じられます頭の中で展開するものにはない美しさですOn the other hand, even a si...

続きを読む

年至 nen-si 八十のとき

正法眼蔵 行持 ( 70 )かくのごとくして南泉 nan-sen の道を学得する功夫 kuhu すなはち二十年なり年至 nen-si 八十のときはじめて趙州 gyo-syu 城東 観音院に住して人天を化導 kedo すること四十年来なり趙州 zyo-syu 禅師 ( 778~897 唐の時代 八世紀~九世紀  日本は、奈良時代から平安時代 )Zen Master Zho-Syu( 778-897 Tang Dynasty, 8th-9th century   Nara to Heian periods in Japan )こ...

続きを読む

魂の座は、内界と外界が触れ合うところにある

十 指 禅 ( 1 )「 魂の座は、内界と外界が触れ合うところにある 」 ノヴァーリス ( Novalis 1772 - 1801 )The seat of the soul is where the inner world and the outer world meet. 「 Novalis 」...................................................Raphael 「 The Marriage of Maria 」この文章を、こう言い換えてみます「 魂の座は、A地点に広がる 」 Let me rephrase this sentenceThe seat of th...

続きを読む

とし六十一歳なりしに

正法眼蔵 行持 ( 69 )趙州 zyo-syu 観音院 真際 sin-sai 大師 従諗 zyu-sin 和尚とし六十一歳なりしに、はじめて発心 ho-sin 求道 gu-do をこころざす瓶 byo 錫 sya-ku をたづさへて行脚 an-gya し遍歴諸方 henreki-syoho するに、つねにみづからいはく七歳の童子なりとも、若し我よりも勝れば我 即ち伊 kare に問うべし百歳の老翁 ro-o なりとも我に及ばざれば、我 即ち他 kare を教うべし.............................

続きを読む

....

続きを読む

どちらが神の所有で、どちらが人間の所有でしょうか ?

一頭の水牯牛 ( 7 )どうして、坐禅のお話しに牛さんが登場するのでしょう ?Why does a cow appear in a story about zazen?「プロメテウスと人間の運命」というギリシャ神話がありますThere is a Greek myth called "Prometheus and the Fate of Man."神が所有するものと、人間が所有するものこれを明確にしようとゼウスは考えましたプロメテウスという神が、「 それは私にお任せ下さい! 」 そう述べこの役を引き受けます...

続きを読む

プロフィール

佐々木 正巳

Author:佐々木 正巳
-----------------------------------


「国際交流のための坐禅会」

(ご希望に合わせ随時開催・参加費無料)

2006 東京国立博物館(上野) にて開催
2006~2015 仙台国際センターにて毎月開催
2022 ~  仙台 国見にて随時開催




かつて馬祖 baso の会 e に参じてとふ
「 如何是仏 nyoga-zebutu 」と
馬祖いはく
「 即心是仏 sokusin-zebutu 」と
法常このことばをききて
言下大悟 gonka-taigo す




法常禅師 Ho-zyo zenzi が
馬祖 baso 禅師の坐禅道場で
静かにお坐りになられてる
傍目にそのお姿は、静止してて
水面静まりけり、死人のように見えます
その死んだ水面に、天地が語りかけます
陽光星辰は一瞬も滞らず、その歌を奏でます

法常禅師はある時
馬祖禅師にご質問なされた
「 仏とは、どのようなものですか 」

馬祖禅師が答えます
「 坐禅においては、心が仏となります 」




宮城県仙台市青葉区国見5-6-18
( 5-6-18 kunimi Aobaku Senndai )


仙台にお越しの折は
気軽にお寄り下さいませ

ご連絡先はコチラでした!
090-7325-5711



師 沼田 勇 先生 



----------------------------------

文章を通しての師

Rudolf Steiner 先生
Kōdō Sawaki
沢木 興道 老師 ( 曹洞宗 )


読み上げ( read aloud ) はこちらでした。
https://www.youtube.com/channel/・・・・








.

最新記事

カテゴリ