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正法眼蔵 弁道話 その10




正法眼蔵「弁道話」 

10)

 曰く、大師釈尊
 霊山会上にして法を迦葉につけ
 祖祖正伝して菩提達磨尊者にいたる
 尊者みづから神丹国におもむき
 法を慧可大師につけき
 これ東地の仏法伝来のはじめなり
 かくのごとく単伝して
 おのづから六祖 大鑑禅師にいたる
 このとき、真実の仏法
 まさに東漢に流演して
 節目にかかはらぬ宗あらはれき

 ときに六祖に二位の神足ありき
 南嶽の懐譲と青原の行思となり
 ともに仏印を伝持して
 おなじく人天の導師なり
 その二派の流通するによく五門ひらけたり
 いはゆる法眼宗、潙仰宗、曹洞宗、雲門宗、臨済宗なり
 見在、大宋には臨済宗のみ天下にあまねし
 五家ことなれども、ただ一仏心印なり
 大宋国も後漢よりこのかた、教籍あとをたれて
 一天にしけりといへども
 雌雄いまださだめざりき

 祖師西来ののち、直に葛藤の根源をきり、
 純一の仏法ひろまれり
 わがくにも又しかあらん事をこひねがふべし



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2018年10月13日06


特異な神秘体験・独自の世界観であれば
その伝承・皇位継承と言うものが
あっても不思議ではありません

しかし、自分以外の人の心は
究極、「推測」の域を越えられない
という厳然とした事実は否定しえないと言えます

すると、習慣風俗伝統上の
宗教宗派的統一体は在りえても
宗教の根幹をなす「信仰」の
その同一性の証明は土台無理で
そうならば、その伝承などありえない
と言う事は通常の悟性で推測されます

無理な事をしているので
宗教宗派の雌雄が決する事はなく
葛藤が止む事もなし、これもまた
さもありなんでしょうか、至極当然と言えます


では、道元禅師が提示する
釈尊からめんめんと継承されて来た
「純一の仏法」とは何なのか? と言う疑問です。

それは、神・すくい等の
通常イメージ上の宗教観は一切なく
二千年前も、たぶん二千年後もそうであろう
「自分の事は、自分で律して行こう」
と言う宿題の着手、でしょうか

人間は身体と心魂から成ってる
いや、そうではなく
人は、身体と心魂そして
精神から構成されてる
心魂の力で身体を律する事は
その力関係上無理で

身体を律する事 = 姿勢を正す
= 坐禅をしようとしたら
力関係上、身体を律する力を持った
精神(深層の自我)を起動するしかない
姿勢を正す事(坐禅)が
即イコール精神(深層の自我・主体性)
の発露育成となる

各人を守護するその主体性は
万人一人残さず有している
その発露育成、これをもって
釈尊からめんめんと継承されて来た
「純一の仏法」がそれである
と言う道元禅師の論旨は
現代通常の悟性で判断しても
確かにそれは万人が共有できる
「純一の仏法」であると
十分に理解可能なお話しですね






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