行 持 下 「 達磨、東土に来たらず 」
- 2020/12/08
- 08:59
正法眼蔵 行 持 下
「 達磨、東土に来たらず 」
異日 i-zitu
雪峰 召 yo んで曰く
「備頭陀、何ぞ徧参 hen-san し去らざる 」
師曰く
「達磨、東土 to-do に来たらず
二祖、西天 sai-ten に往 yu かず 」
雪峰、之 kore を然 sika りとす
( 別の日、雪峰禅師は
( 師備禅師を呼んで尋ねます
( 小欲を整えるならば
( なぜ、諸方に赴き
( 仏法を求めないのですか
( 師備禅師は答えます
( 達磨大師は中国に来られなかったし
( 二祖慧可大師はインドへ行っておられません
( 雪峰禅師はこれを聞いて
( その通りです。と頷きます

( 達磨大師が
( 中国に来られて
( 仏法の実際である
( 坐禅の行を紹介されたがゆえの
( その後の展開です、しかしここでは
( 「 達磨、東土 to-do に来たらず 」

( 達磨大師は、二祖慧可大師は
( 雪峰禅師は、師備禅師は
( 仏法を求めて、どこへ行ったのでしょう
( 皆様どこにも行かなかった、と言えます
( そして同じところへ行った、とも言えます
( 行った、というよりは
( 同じことを行った、と言えます
( 皆、有限生身の身体へ
( 真上から己を投入し
( 己の鏡像をその身に映し出した

( 坐禅の形
( 静かに身で十字を切ります
( これは多くの修行の中の一つ
( とは言えないし、ましてや
( 「 おまじない 」 や迷信でもない
( 六世紀、1500年前の
( 達磨大師に始まる坐禅の系譜は
( 祖師方の個性に依存しません
( この系譜は坐禅そのものに依存します
( 創世記に書かれてるような
( 人間創造の構造・意図に坐禅は合致してる
( それが坐禅の根拠であり
( 違う個性の方々が時代を超え
( 合致を見るのは、そのためと言えます

( 自我意識・「 私 」 は
( この有限生身の身体の中で
( 感じ取られます
( しかし、自我意識・「 私 」 の本体は
( この世、この時空の
( どこを探しても見いだせないでしょう
( 自我意識・「 私 」 の本体は
( 姿・形と言う存在形態ではなく
( 「 これが私だ 」 と言う意識の中
( 自己を明らかにすると言えます

( 「 これが私だ 」 と言う意識
( これをシミュレーションしてみます
( 後方背中から
( 記憶表象が流れて来ます
( 前方からは、期待希望
( 不安やあやうさが流れて来ます
( 二つの時間の流れに
( 真上から垂直に
( 「 これが私だ 」「 これが君だ 」
( と言う判断を下します

( 過去から流れて来る時間
( 未来から流れて来る時間
( 今ここを規定する足下の現実
( すべてを包含して
( 「 これが私だ 」「 これが君だ 」
( と判断するには
( 二つの時間に対して垂直に
( 現実身体に対しては真っすぐ
( その判断を下さねばなりません

( 時空を超えた精神・自我が
( 時空と言う現実の中に
( 己を開示するには
( 時空 [ 身体 ] に対して十字・垂直に
( 働きかけねばならない
( これが美しい己の鏡像を創る摂理になってると
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