行 持 下 「 心中無事 」
- 2021/01/08
- 09:25
正法眼蔵 行 持 下
「 心中無事 」
若し心中無事なることを得ば
仏祖猶ほ是れ冤家 on-ke の如し
一切の世事、自然に冷淡にして
方 masa に始めて
那辺 na-hen と相応せん
( 精神と二つの時間
( そして、五感(身体)
( これを、正十字に位置づけすると
( 「 心中無事なることを得る 」
( 心中無事なれば
( さらに神仏を志向することは
( むしろ 「 あだ 」 となります
( 正十字の座卓が整ってゆくと
( 神仏を含めた世事全般から
( 自然と離れてゆきます

( 坐の行持が
( どこまでも第一義になってる
( 仏教史からも思想史からも
( 何故そうなるかを
( 理解するのは困難と言えます
( 正法眼蔵を読んでも
( そのような使命感は出て来ません
( しかし、シュタイナー先生の
( 「 心魂十字図 」 を見てると
( そうならざるをえないかも、と思えて来ます

( 過去から来る記憶表象
( 未来から来るあせり不安希望
( 前後から二つの時間がやって来ます
( この二つは目には見えない
( 心魂的なものです
( この前後腰腹、過去未来に対して
( 精神が直角に交差します
( これも目には見えません
( 唯一確認出来るのは
( 垂直に精神が打ち込まれる
( 「 身体 」 です
( この図の通り身体に対して
( 精神が垂直に打ち込まれたとしたら
( どうなるでしょうか
( 足の裏まで
( 精神を打ち込まれたとします
( 坐禅の形になってしまいます
( 余談となりますが
( 昔、武士が坐禅を組んだのは
( 足の裏、鼻緒の場所が
( 活きてなければ剣が活きないから
( また、奈良薬師寺の
( 「 仏足石 」 が国宝なのは
( 精神が身体を貫き
( 鼻緒の場所を活かすことが出来
( ここから力が出せると
( 健康が、破られることはないから
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