行 持 「 廓然無聖 」
- 2020/08/28
- 06:57
正法眼蔵 行 持 下
「 廓然無聖 」
広州の刺史 si-si 蕭昂 syu-ko といふもの
主礼をかざりて迎接したてまつる
ちなみに、表を修して武帝にきこゆる
蕭昂が勤恪なり
( 広州の長官、蕭昂 syu-ko という人が
( 達磨大師をあつい礼をもって迎えます
( 達磨大師が
( インドからはるばる来られたことを
( 蕭昂は武帝に報告なされました
( 蕭昂は慎み深く真摯な方でした

武帝すなはち奏を覧して
欣悦して、使に詔をもたせて
迎請 go-syo したてまつる
すなはちそのとし十月一日なり
( 武帝はその報告に接し
( たいへん喜ばれました
( そして使者をたて大師を招聘なされました
( それは、その年(527年)の
( 十月一日のことです

初祖、金陵 kin-ryo にいたりて
梁武 ryo-bu と相見するに、梁武とふ
「 朕、即位より已来 kono-kata
寺を造り、経を写し、僧を度すること
勝 a げて紀すべからず、何の功徳か有る 」
師曰く
「 並びに功徳無し 」
( 達磨大師は、金陵に赴きます
( 梁の武帝は
( 菩提達磨大師にまみえ尋ねます
( 私は即位して以来、寺を建て
( 経を写し、僧を守って来ました
( 全てを書ききれないほどにです
( これらすべては
( どんな功徳となるでしょう
( 菩提達磨大師がお答えなられます
( そのような事はすべて
( 功徳とはなりません

帝曰く
「 何の以 yue にか功徳無き 」
師曰く
「 此れは但 tada
人天の小果、有漏 uro の因なり
影の形に随ふが如し
有りと雖も実に非ず 」
( 武帝が尋ねられます
( なぜ功徳が無いのでしょう
( 師がお答えになられます
( そのようなことで得られるものは
( 人間界や
( 天上界に於ける小さな果です
( むしろ迷情の原因となるものです
( 影が形から作られるように
( 有るとしても影でしかありません

帝曰く
如何 ika なるか是れ真の功徳
師曰く
浄智妙円にして
体 tai 自 onozuka ら空寂なり
是の如くの功徳は世を以て求めず
( 武帝はさらに尋ねられました
( 真の功徳とは
( どのようなものなのでしょうか
( 師がお答えになられます
( 浄智妙円にして
( 体 tai 自 onozuka ら空寂なり
( このような功徳は
( こうすればああなる、と言う
( 世間法の延長線上にはないのです

帝又問う
「 如何 ika ならんか是れ
聖諦第一義諦 syo-tai-dai-itizi-tai 」
師曰く
「 廓然無聖 kakunen-musyo 」
( 武帝は尋ねられます
( 聖人の真理とは
( どのようなものなのでしょう
( 師はお答えなられます
( 広く開けていて、凡も聖も無いことです

( 凡を嫌い、聖を求める
( 悪い事ではない、とも思えます
( では達磨大師が述べられる
( 「 凡も聖も無い 」 にはどんな意味が
( あるのでしょう
( 「 円 A の中か、その外 B か 」
( この単純な方程式が
( 現実の生活では無限の働きに発展します
( 「 白人か、黒人か 」
( 「 認められてるか、無視されてるか 」
( 「 健康か、不調か 」
( 「 豊かか、貧しいか 」
( 「 絆か、孤独か 」
( 「 若いか、老いてるか 」
( 「 幸せか、不幸か 」
( 「 生きてるか、死んでるか 」

( 「 円 A の中が良く、その外 B は悪い 」
( この単純な方程式が
( そうとも言える、って軽妙に機能
( していれば何の問題も起こりませんが
( 現実はどうでしょう
( 重く心魂をとらえ、時には狂気となります
( 個人であれ、集団であれ
( 国家歴史すらぐちゃぐちゃにしちゃう
( 「 円 A の中が良く、その外 B は悪い 」
( これを 「 そうとも言える 」 に止めておこう
( かくの如し、に止める
( この如是の法が仏道であり
( 達磨大師の道と言えます
( 神妙坐禅を組み
( 心魂を身十字中心へと静める
( 様々な事件が起こりますが
( 十字中心の静謐の中へ消えゆく
( 円 A の暴走を防ぐ具体策と言えます
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