行 持 「 洛陽にいたりぬ 」
- 2020/08/28
- 19:07
正法眼蔵 行 持 下
「 廓然無聖 」
帝曰く
朕 ware に対する者は誰 ta そ
師曰く
不識 hu-siki
帝、領悟 ryo-go せず
師、機の不契 hukei なるを知る
( 武帝が述べられます
( 師は、凡も聖もないと述べられましたが
( 師は、凡なのですか、聖なのですか
( 師がお答えになります
( 「 識りません 」
( 武帝は師の言葉を理解出来ません
( 達磨大師も武帝とは
( 仏道の因縁が熟してないと知ります

ゆゑにこの十月十九日
ひそかに江北にゆく
そのとし十一月二十三日、洛陽にいたりぬ
( 武帝と良好な関係にならず
( 10月19日 [ 527年]
( 金陵 kin-ryo を離れ
( 長江を北へ向かいます
( 11月23日、魏の洛陽に至ります

嵩山 su-zan 少林寺に寓止 gu-si して
面壁而坐 menpeki-niza 、終日黙然なり
しかあれども、魏主も不肖にしてしらず
はぢつべき理もしらず
( そして、嵩山少林寺に入り
( 壁に向かって坐し
( 一日を神妙坐禅の中に暮らします
( その地、魏の主も
( 達磨大師が何をなされているのか
( 知りえませんでした

師は南天竺の刹利種 seturi-syu なり
大国の皇子なり
大国の王宮その法ひさしく慣熟せり
( 達磨大師は
( 南インドの王族の出身でした
( 大国の皇子で、大国の王宮では
( 静謐坐禅の法が受け継がれていました

小国の風俗は、大国の帝者に
為見のはぢつべきあれども
初祖うごかしむるこころあらず
( 小国の風俗には
( 静謐坐禅の法は伝わっておらず
( 恥ずかしいことと言えますが
( 達磨大師はそれを
( 蔑むことはありませんでした

くにをすてず、人をすてず
ときに菩提流支の
訕謗 sen-bo を救せずにくまず
光統律師が邪心を
うらむるにたらず、きくにおよばず
( どのような国でも見捨てず
( どのような人でも見捨てず
( 時に他の考え方をする
( 仏者の誹謗を受けましたが
( 動ずることなく、憎むことなしでした
( また邪心とも言える
( 排斥を受けても、恨むことなく
( 気にもとめませんでした

かくのごとくの功徳おほしといへども
東地の人物、ただ尋常の
三蔵および経論師のごとくにおもふは
至愚なり、小人なるゆゑなり
( 達磨大師には、このように
( 大きな功徳があるのですが
( 中国の人々が
( 達磨大師に接しても
( 普通の三蔵の師や
( 経文を講じる師のように思ったことは
( まことに愚かで、残念なことでした

あるひはおもふ、禅宗とて
一途の法門を開演するが
自余の論師等の所云も
初祖の正法もおなじかるべきとおもふ
これは仏法を濫穢せしむる小畜なり
( 達磨大師は禅宗と称し
( 一法門を主張されたけど
( ほかの経論の師たちと
( 結局、同じではないか
( そのように受け止める人もいました
( これは、達磨大師の本意
( 仏法の真価を受け止められない
( とても残念なことでした

初祖は釈迦牟尼仏より
二十八世の嫡嗣 teki-si なり
父王の大国をはなれて
東地の衆生を救済する
たれのかたをひとしくするかあらん。
( 達磨大師は
( 釈迦牟尼仏の真価を引き継ぐ
( 二十八代目の継承者です
( 父王の大国を離れ
( 中国の人々の救済に向かわれました
( 誰が達磨大師と
( 肩を並べることが出来るでしょう

もし祖師西来せずば、東地の衆生
いかにしてか仏正法を見聞せむ
いたづらに名相の沙石に
わづらふのみならん
( もし達磨大師が
( インドから来なければ
( 中国の人々は、どうして
( 仏法の正法を知りえたでしょうか
( いたずらに無数の経文の中に
( 迷い煩うしかなかったはずです

いまわれらがごときの
辺地遠方の披毛戴角 himo-tai-kaku までも
あくまで正法をきくことえたり
( 今、日本のような
( 辺地遠方にあっても
( ちゃんと、正法を聞くことが出来ます

いまは田夫農夫
野老村童までも見聞する
しかしながら祖師航海の行持にすくはるるなり
( 今では農夫であっても
( 老人子供をとわず
( 仏法に接することが出来ます
( こうなりえたのは
( 達磨大師が海を渡り
( 静謐坐禅の行を中国に伝えた
( その功徳因縁によるのです

( 武帝が問います
( 師は、凡ですか、聖ですか?
( 師がお答えになります
( 「 識りません 」
( 迷情苦悩を因数分解すると
( 「 識り過ぎてる 」 が現れます
( 「 識り過ぎてる 」 とはどういう事でしょう
( 正しい 〇、その一円を高圧な筆致で描きます
( その結果どうなるでしょう
( 周り四方は、屈強な正しくない事ばかりです

( 達磨大師の静謐坐禅
( 如是の法は
( 違う展開を見せてくれます
( 正邪真偽幸不幸は確かにあります
( ありますが、それらは次々と現れて
( 身十字の静謐の中へ
( 次々と帰り去ります、消え行きます
( 正邪真偽幸不幸は確かにありますが
( それらは 「 障り 」 とはなりません

( 体 tai 自 onozuka ら空寂なり
( これは、からっぽのことではなく
( 滞らない、さわりがない状態
( 達磨大師や祖師方は
( 何故そんな事が出来るのでしょう
( 達磨大師や祖師方が
( 指し示す 「 身命を捨てる 」 って
( どんな意味か、これが問題です
( 「 身命を捨てる 」 って
( 心を麻痺させて、つっきる事?
( であるわけがありません

( 達磨大師や祖師方が
( 指し示す 「 身命を捨てる 」 とは
( 心象であれ体感であれ一切を
( 坐禅の十字中心へ送り届ける事
( すべての、十字静謐への御帰還が
( 「 身命を捨てる 」 の意味だと言えます

.