行 持 下 「 尋師訪道 」
- 2021/03/17
- 08:08
正法眼蔵 行 持 下
「 尋師訪道 」

某甲 sore-gasi そのかみ
径山 kin-zan に掛錫 ka-syaku するに
光仏照 ko-butu-syo そのときの
粥飯頭 syuku hanto なりき
上堂していはく
仏法禅道、かならずしも
他人の言句 gon-ku をもとむべからず
ただ各自理会
かくのごとくいひて、僧堂裏すべて不管なりき
雲来の兄弟もまたすべて不管なり
祇管 si-kan に官客と相見追尋するのみなり
( 私 [ 天童如浄禅師 1163-1228 ] は
( 以前、径山の道場で修行したことがあります
( その時の住持は、光仏照和尚でした
( 和尚はこう述べられました
( 仏法禅道は必ずしも
( 他人の言句を求めるだけとは限りません
( ただ各自で道理を会得するのです
( そう言って、僧堂内の事に係わりませんでした
( 諸方から来た修行僧にも係わらず
( 日々、役人と歓談して暮らしました

仏照ことに仏法の機関をしらず
ひとへに貪名愛利のみなり
仏法もし各自理会ならば
いかでか尋師訪道の老古錐 ro-kosui あらん
真箇 sin-ko に是れ光仏照、曾て参禅せざるなり
( 仏照和尚は、僧堂の役目を知らず
( ひとえに名利を好んでいたと言えます
( 仏法がもし、めいめい
( 道理を明らめて済むことなら
( どうして先人方が師を求め
( 道を尋ねたのでしょうか
( 光仏照和尚は、師について
( 坐禅を学んだことがなかったのです

いま諸方長老無道心なる
ただ光仏照箇 kobutu-syoko の児子なり
仏法 那 nan ぞ他が手裏 syu-ri に有ることを得ん
( 今 諸方の長老が無道心なのは
( 光仏照和尚の影響を受けたからです
( それでは、坐禅に基づく仏法が
( 根付くわけがないのです
かくのごとくいふに、仏照児孫
おほくきくものあれどうらみず
( 如浄禅師は
( このように述べられました
( そこには仏照和尚の児孫も
( 多数聴いておりましたが
( 恨む者はいませんでした
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