行 持 「 不識 hu-siki 」
- 2020/09/01
- 10:41
正法眼蔵 行 持 下
「 不識 hu-siki 」
進んで曰く、「 朕に対する者は誰そ 」
又曰く、「 不識 hu-siki 」
( さらに武帝は問います
( 凡と聖を峻別しないなら
( あなたは一体
( どのような方なのですか?
( 師が答えられます
( 識りません

( 「 朕 ware に対する者は誰 ta そ 」
( これは達磨大師に対して
( [ 指差し ] してる感じでしょうか
( 上のものが下を見ている
( そう見る事も出来ますが
( 下から上を見ても、左右を見ても
( 視線は自分から発し、外を向いてる
( 私達の無意識の癖のようにも思えます

( 達磨大師の視線 ( 眼 ) は
( 外に向かず内十字に
( 遥か無限へ向いています
( 四本の矢のようなその眼は
( 中心へ放たれ、無限に飛び
( 見えなくなります
( 静謐の中へと消えゆきます
( その消息、知る能わずでしょうか
( 確かにそうなので
( 達磨大師が、「 不識 hu-siki 」
( そうお答えられたのは
( 文字通りの事を述べられたと言えます

( その消息、知る能わず
( あっ、お亡くなりになられたの
( とも言えますが
( 簡単には死ぬこと能わず
( これが釈尊の大きな宿題です
( 生を〇とし、死を×とする
( しかし、生きてる間に死ねねば
( 死んでも死ねない
( 欲望激情は身体を失くしても
( 物質界とは違う時空で生き続け
( これが迷情の資質となり
( 千年スパンで受肉を繰り返す
( この世で死ぬことが出来れば
( この輪廻の循環から
( 抜け出ることが出来るのに
( これが達磨大師の
( 「 救迷情 」 の背景認識と言えます

( キリストの十字架上の死
( 神なのに、神すら未知の
( 人間界固有の死を経験された
( 人の死の門を通過なされた
( 達磨大師の静謐へ向かう坐禅が
( それと対照をなします

( ともに死の門は聖十字をしてます
( 達磨大師の聖十字坐は
( 眼を内十字にします、息も寄り添います
( そのイメージは周りの人には見えませんが
( 本人には、薄い鉛筆で書いた
( 下書き線くらいには明瞭に見えるはずです

( 幾何学的にも美的にも
( 正確に下書き線を描くと
( そして四本の矢に沿い眼を向ければ
( 死すのは成仏するのは
( 私ではなく、自分の「 迷情 」
( だと気付くはずです
( 私は、淡い十字架として継続します

( これを西洋の人が
( キリストを通しての救いと尊び
( 達磨大師が同じ経緯を
( 面壁坐禅として正法眼蔵として
( 尊んだと思われます

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