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行 持  下 「 仏祖単伝の行持なるべし 」



正法眼蔵 行 持  下
「 仏祖単伝の行持なるべし 」


しづかにおもふべし、一生いくばくにあらず
仏祖の語句、たとひ
三々両々なりとも道得 do-toku せんは
仏祖を道得せるならん

 ( 静かに考えてみると
 ( 人生は、あっという間です
 ( たとえわずかでも
 ( 仏祖の言葉が身にしみたなら
 ( それは、仏祖に出会えたと言う事です

ゆゑはいかん
仏祖は身心一如 iti-nyo なるがゆゑに
一句両句、みな
仏祖のあたたかなる身心なり

 ( 何故なのでしょう
 ( 仏祖は、心と身が
 ( 一つのように見えます
 ( 一如とは 「 一つになる 」 ではなく
 ( 別々なものが一つに見える
 ( と言う意味です
 ( 心と身が別々だからこそ
 ( わが身を客体として
 ( 大事に扱うことが出来るのです

かの身心、きたりて
わが身心を道得す
正当道得時
これ道得きたりて
わが身心を道取するなり
此の生に累生の身を道取す、なるべし

 ( 私達はどのように
 ( 身心を運用すべきでしょうか
 ( 仏祖のそれが見本となります
 ( 仏祖はその身を客体化し
 ( 心はあたかも
 ( その身の外にあるかのようにして
 ( その身に威儀骨格の風を送ります
 ( 私達が同じ事、威儀坐禅をなす時
 ( 私達もこの身の外から
 ( 威儀骨格の風を送っているのです

かるがゆゑに
ほとけとなり祖となるに
仏をこえ祖をこゆるなり
三々両々の行持の句
それかくのごとし

 ( それゆえ、坐して威儀するとは
 ( わが身から離れる事です
 ( この身が 「 客体 」「 その身 」 となる時
 ( 私達は仏祖と同じ事をしており
 ( 仏祖は見上げる存在ではなくなります
 ( 仏祖が残された教えとは
 ( そのようなものです

いたづらなる声色の
名利myo-ri に
馳騁 ti-hei することなかれ
馳騁せざれば
仏祖単伝の行持なるべし

 ( いつも、この身の
 ( 感覚に追い回されてる
 ( 坐して威儀を正すとは
 ( このグルグル舞いから
 ( 離れることです
 ( この身に威儀の風を送るは
 ( 客人に茶をふるまうようなものです


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すすむらくは
大隠 dai-in 小隠 syo-in
一箇 i-ko 半箇 han-ko なりとも
万事万縁をなげすてて
行持を仏祖に行持すべし

 ( 深山に一人あっても
 ( 喧騒に一人あっても
 ( わずかな時間でも坐して威儀を正すなら
 ( この身は 「 客体 」「 その身 」 となります
 ( この時、私達は
 ( 五感の呪縛から離れます
 ( 大事な客人ですが
 ( その感覚や内面はどこまでも
 ( 同情すべき対象に止まります
 ( 仏祖は、この法を残されました
 ( 私達がそうして、自由になる事を
 ( 仏祖は願ったのです
 ( 私が勧めたい威儀坐禅の法とは
 ( そのようなものだったのです



正法眼蔵 仏祖行持 第十六下
仁治三年 壬 mizueno 寅 tora 四月五日
観音導利 興聖 ko-syo 宝林寺に于 o いて書く
同四年 癸卯 mizunoto正月十八日 書写
同三月八日 校点了kotenryo 懐弉 e-zyo






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