谿声山色 22「 伝道授業の機 」
- 2021/06/01
- 08:28
正法眼蔵 谿声山色 22
「 伝道授業の機 」

いま学道には、かくのごとくの
やまふのあらんとしるべきなり
たとへば、初心始学にもあれ
久修 ku-syu 錬行 ren-gyo にもあれ
伝道授業の機をうることもあり
機をえざることもあり
( 仏道を学ぼうとすると
( 色々やっかいな問題に直面します
( これから始めようとする人も
( 長く関わって来た人も
( 坐をもって本道とする正師に
( 出会い指導を受けれるか
( その機会に恵まれないか、とかです
慕古 mo-ko してならふ機あるべし
訕謗 sen-bo して
ならはざる魔もあらん
両頭 ryo-to ともに
愛すべからず、うらむべからず
( 同時代に師がいなくても
( 古の仏祖の行動から
( 学べる人もいます
( 理解出来ずに
( 指針となせない人もいます
( どちらが上でどちら下とか
( 論じても始まりません
いかにしてか
うれへなからん、うらみざらん
いはく、三毒を三毒と
しれるともがらまれなるによりて
うらみざるなり
いはんやはじめて仏道を
欣求 gon-gu せしときの
こころざしをわすれざるべし
( 何故、ああだこうだ
( 言っても無意味かです
( 思い感情の中に拘束され
( それがイコール自分になってる
( その思い感情が
( 自我を乗っ取ってる
( そう認識してる人は希です
( そう認識してない人に
( ああだこうだ言っても無意味です
( まして初めて仏道を求めた時
( 私達に、ああだこうだは
( なかったはずです
.