行 持 下 「 止 宿 」
- 2020/10/01
- 09:59
正法眼蔵 行 持 下
「 止 宿 」
ただ宿殖般若の
種子ある人は
不期 fu-go に入門せるも
あるは算沙 san-sya の業を解脱して
祖師の遠孫となれりしは
ともに利根 ri-kon の機なり
上上の機なり
正人の正種なり
愚蒙 gu-mo のやから
ひさしく経論の草庵に
止宿 si-syuku するのみなり
( 過去世に
( 智慧の種子を育てた方は
( 期せず仏道に入っても
( 業を解消する
( 面壁坐禅に合流します
( それは過去世からの
( 飽くなき研鑽の賜物であり
( 人格を改変して来たから
( ゆえに正法を継ぐ人となったのです
( 過去世に智慧の種子を育て
( 少しずつでも人格に
( 働きかけてこなかった人は
( 経典 論書の教えの中に
( 自己を拘泥してしまいます
( 業の解消と面壁坐禅が
( イコールであることに
( 気付けないのです

( 姿勢を良くする
( 強く健康な身体にする
( これと面壁坐禅は
( どこに違いがあるのでしょう

( 身体に六本の矢の
( 内十字をイメージします
( それらの矢は中心へ向いています
( その流れに沿って、「 息 」 を捧げます

( 流れに沿って、「 息 」 を捧げる
( これと
( 流れに合わせ、「 息 」 をする
( これは静かに坐してしてみると
( まったく違う感じがします

( 釈尊の前世物語に
( 飢えた虎に
( 身を供するお話しがあります
( 菩薩は供すること
( 捧げることが出来ます
( 「 身を供する 」 は
( イメージするのも困難ですが
( 「 息を供する 」 は
( 坐禅の中でシミュレーション
( 出来るような感じがします

( 内十字、中心へ向け
( 「 息を供する 」 これにより
( 何がなされるのでしょう
( 息は中心の寂滅へ消え去ります
( 供したので手元に残りません
( 捧げたので手元に残りません

( そしてその時
( 自分と共に輪廻して来た
( 喜怒哀楽、熱情冷情
( それらが息に乗って
( 共に寂滅へ吸い込まれて行きます
( 業それ自体がその業から解放されます

( 業を悪として見るのではなく
( 呪われ呪縛されし者として見ています
( 普段、業は無意識の深みで
( 自分を動かしています
( それを救済解放せねばならない
( 業にそう接するところに
( 達磨大師の面壁坐禅
( その特徴があります
( またそれが理解しがたいところ
( であると思われます
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