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行 持  下  「 慚 愧 」




正法眼蔵 行 持  下
 「 慚 愧 」

正法にあふ
今日のわれらを
ねがふべし
正法にあふて
身命をすてざるわれらを
慚愧 zan-ki せん
はづべくは、この道理をはづべきなり


 ( 身動き出来ない存在
 ( それを救済解放してあげられる
 ( その貴重な正法、すなわち面壁坐禅
 ( これに今日出会えた事は、奇跡的なことです
 ( 出会えたのに、出来るのに
 ( してあげない、という事がありえるでしょうか



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 ( 呪いをかけられたように
 ( 身動き出来ない存在があります
 ( 見る事能わずですが、感じる事は出来ます
 ( こちらが悪かったのもありますが
 ( いきなりクラクションとか鳴らされると
 ( ドキィっとして、カっと怒りが湧き立つとか
 ( ばかばかしいと思っても
 ( その怒りは、消えて ・・ と思っても
 ( すぐには、消えてくれません



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 ( ワーグナーの作品
 ( 『 パルジファル 』  ( 全3幕 )
 ( を見てみます
 
 ( 若く新しい王アンフォルタスは
 ( 魔術師クリングゾルの征伐へ赴きます
 ( でもクリングゾルがさしむけた謎の美女に誘惑され
 ( 聖槍 sei-so を奪い取られたうえ
 ( その聖槍で脇腹に傷を負ってしまいます
 ( それ以来、アンフォルタス王の傷口は癒えず
 ( 日夜その苦痛に苛まれます
 ( そのようなアンフォルタス王に、ある日、神託が下ります
 ( 「 同情(共苦) によって叡智に至る
      神に選ばれた純粋な愚か者を待つように 」
 ( その者が聖盃の城に救いをもたらすと



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 ( 同情(共苦) によって叡智に至る
 ( これはワーグナーの言葉ですが
 ( 達磨大師の面壁坐禅とは、何をなさってるのか
 ( この言葉で近づけるかと思われます
 
 ( 常識的には坐禅の姿は
 ( 何を不自然な事をしてるのだろう
 ( と映ります
 ( 半寝瞑想でもなく、思慮の時間でもない
 ( 駅のホームにいるように
 ( ごく当たり前で、姿勢が坐禅の姿です



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 ( ワーグナーの 『 パルジファル 』 では
 ( パルジファルは聖槍 sei-so を片手で掴み
 ( 頭上にかざし十字の印を切ります
 
 ( 十字の印を切るとは
 ( 何を、なさっているのでしょうか
 ( 達磨大師は面壁坐禅において
 ( 外に十字を切るのでなく
 ( 身中に十字を切られておられます

 ( パルジファルの聖槍の十字も
 ( 面壁坐禅の身中の十字も
 ( その十字は外へ放射しているのではなく
 ( 四本の矢はすべて、内へ向いてるとします



20201011SS00005.png
 ( 内へ向いた四本の矢
 ( それは中心点に帰結します
 ( そこには、誰がいるでしょうか
 ( そこにいるのは、私自身に他なりません
 ( 「 同情(共苦) によって叡智に至る 」
 ( そこらじゅうに、消える事が出来ない
 ( 苦悩苦痛が散乱してるとします
 ( それらが、中心へ私へ集まって来ます
 ( それが十字の内容と言えるかも知れません
 ( 「 同情(共苦) によって ・・ 」 です
 ( ホラー映画を何本も同時に見るようで
 ( 精神錯乱しちゃいませんか ?
 ( しかし、文章はそこで終わらず
 ( 「 同情(共苦) によって叡智に至る 」
 ( その十字が叡智に至ると書かれています



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 ( 内十字を切るとは
 ( どう言うことでしょうか
 ( 苦悩がすべてが私に集まって来ます
 ( 同情(共苦) です
 ( これって、その事自体が
 ( 「 私 」 が機能したとも言えないでしょうか



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 ( 自分は日本語で思考してます
 ( 様々の言語で 「 一人称 」 があると思います
 ( 日本語なら
 ( 「 わたし 」 「 自分」 「 ぼ く 」 「 われ 」
 ( そこで、その中で別格の一人称として
 ( 「 私 」 を使おうと思います
 ( この 「 私 」 は、人間関係の中のそれでなく
 ( 自分が自分を指し示す一人称とします
 ( 自分が自分を指し示すとは
 ( どう言うことでしょうか
 ( これがそれが、私自身なのだ
 ( あなた自身なのだ、とならざるを得ません
 ( 「 同情(共苦) によって ・・ 」 です
 ( これってとんでもない一人称です
 ( 苦悩は避ける、他へ押し付ける、見捨てる
 ( その反対です



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 ( この 「 私 」 が機能する時
 ( 心に内十字が、切られています
 ( そしてこの一人称は別格の一人称です
 ( 「 同情(共苦) によって叡智に至る 」
 ( この文章を逆に読んでみます
 ( 叡智には、同情(共苦) が可能だ
 ( とも読めます
 ( そしてまた順に読めば
 ( 同情(共苦)によってのみ、叡智へ至れる
 ( そう読むことが出来ます



20201011SS00010.png
 ( 何をなされておられるのですか?
 ( な、達磨大師の面壁坐禅
 ( 内十字が、切られてます
 ( 別格の 「 私 」 が機能してます
 ( 同情(共苦) がなされています
 ( = 叡智がそこに機能しておられる
 ( と、言えるのではないでしょうか


20201011SS00011.png







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