行 持 下 「 寒苦いまだ人をやぶらず 」
- 2020/10/22
- 06:34
正法眼蔵 行 持 下
「 寒苦いまだ人をやぶらず 」
催さるるところは
見む人の涙の如くなるべし
いたづらに塵土に化して
人にいとはれん髑髏をもて
よくさいはひに仏正法を行持すべし
( 私達と旅を共にする
( 呪われし諸業
( これに手を差し伸べなかったら
( そこで催される風景って
( どんな風景でしょうか
( 涙の絵の具で描いたみたい
( そんな絵になっちゃいます
( 見るもせつない髑髏とするか
( せっかく出会った仏正法
( 面壁坐禅の法で
( 冷たい牢獄から出してあげるか
( 思案のしどころなのです
このゆゑに
寒苦をおづることなかれ
寒苦いまだ人をやぶらず
寒苦いまだ道をやぶらず
ただ不修をおづべし
不修それ人をやぶり、道をやぶる
暑熱をづることなかれ
暑熱いまだ人をやぶらず
暑熱いまだ道をやぶらず
不修よく人をやぶり、道をやぶる
( 寒苦は、たしかに切ないです
( しかし意識無意識忘れ去られ
( その場所に留まり続けるしかない
( 目には見えない己の過去心は
( もっと切なく、そこで凍えているかも知れません
( これを放置するって、恐ろしいことです
( 夏の暑さも困ったものです
( しかし忘れ去られ
( 己の怒りで己を焼くしかない
( 過去の業火は
( その火を自ら消す事能わず
( 心底で焼かれ今も苦しんでるのです
( その火を消して上げないって
( とても、恐ろしいことなのです

( お客様あまり来てなさそう
( そんな民宿に泊まったら
( お布団が湿ってて、カビくさかった
( このお部屋って
( オーナーから見捨てられちゃった?
( いや、色々忙しくて
( そこまで手が回らないんですね

( 身中に
( 3 D 座標系を描きます
( その中で、頭頂・眉間・人中って
( 真上からの垂線一矢を
( イメージしたとします
( 心静かに、こんな事するって
( 日常ではないので
( 修行と言えば修行でしょうか

( 普通に暮らしてても
( 生活やお仕事で、Nn!って
( 頭に血が上っちゃう事、多々あります
( これがやっかいで、そく下げられません
( 頭頂・眉間・人中って
( 垂線が、下に放たれます
( この線は実際どこを通るのでしょう

( 上からの垂線は
( 顎の角度で微妙に変化します
( この線が身体の背面を通る
( そうも出来ますし
( 身体の前面を通す事も出来ます

( 面壁坐禅の法
( これが何故、壁の前に坐るのか
( 対面で坐ってもよいのでは
( これは人に対さない坐り方
( かも知れません
( 顎の角度を色々変えてみます
( 前面でもなく、背面でもない
( 身体の中心を通そうとすると
( 顎は微妙に前に出る感じがします

( 顎が少し前に出る感じ
( とても微妙な調整ですが
( 自分で感じても
( ちょっと偉そうな感じがします
( 前に人がいないので出来ますが
( あっ、カウンターとか
( 隣りに座ってお話しすれば
( 問題ないかも知れませんが

( 身中に3 D 座標系を描く
( そう言っても実際は
( 微妙な調整でその体感は
( ぜんぜん異なる事が分かります
( 元々偉そうな方は
( 微妙に顎を引いた方が
( 良いかも知れませんし
( 上からの垂線が
( 前後の直線と調和して交わるか
( そして交わって
( 下から上への垂線とも出会えるか

( 身中に3 D 座標系を描く
( なかなかやっかいです
( 何故でしょうか
( 一つの推測はこうです
( この身体の癖って
( 意識無意識の己の諸業
( それが関わってるから ・・

( 温かく美しい聖十字を
( 身体で描こう!
( そんな事して、なんの意味が?
( 確かにそうで
( そんな事しても、さほど変わりません

( 以前読んだ本の中に
( それだけ修行して
( その程度なら [ 例えば私? ]
( やる価値ないですね
( って
( その本のおちはこうです
( これだけしたので
( これで済んでるんです
( もし、してなかったら
( 今の何倍もひどい事になってた事でしょう

( 温かく美しい聖十字を
( 身体で描こう!
( なのにぜんぜん似て非なるもの
( て言うか、ぜんぜん似てない
( でも
( 温かく美しい聖十字を
( 身体で描こう! って
( 身体と姿勢と会話してる時
( 私達は無意識の中で
( その姿勢の癖、支えてる
( 生きてる魂の諸業に
( 接近しているのかも

( 行き過ぎな欲望や
( 怨念のような激情
( 直近の前世六世、8000年の人生に限っても
( 私達はどれだけのもの
( 引きずってるか分かりません
( それは魂の中で意識に
( 上らないかも知れません
( しかし、好き嫌いや体質
( 身体の姿に関与してるんだろう
( それはありえます

( 長い年月の中で
( 私達は自分の姿を
( その魂から形成して来た
( 正法眼蔵の面壁坐禅では
( その道を逆に辿ります
( 温かく美しい聖十字を
( 身体で描こう! って
( 己の姿と対話します

( 温かく美しい聖十字を
( 身体で描こう!
( この入り口から
( 接近不可能な魂の諸業へ
( 温かい風を送ろう!です
( 癒し鎮めピリオドを打ち
( その束縛から解放してあげよう
( って

( 無意識の底に息づく
( 魂の諸業、これが温められ
( その束縛から幾年幾百年
( 幾千年を経て、やっと解放された
( 元の元火に帰ることが出来る
( その時には、身体の癖も消え
( 温かく美しい聖十字を
( ほんとうに身体で現わす事が
( 出来るかも知れません

( 「 面壁坐禅の姿
( 釈尊、成道の姿なり 」
( この言葉が、その消息
( 伝えてるように思われます
.