行 持 下 「 古尚若此 」
- 2020/10/29
- 07:33
正法眼蔵 行 持 下
「 古尚若此 」
かくのごとくおもふに
志気、いよいよ励志 rei-si あり
いまいふ古尚若此 kosyo-nyaku-si
我又何人を、晩進も
わすれざるべきなり
しばらくこれをわするるとき
永劫の沈溺あるなり
( そのように考えると
( 慧可大師の志は、また蘇ります
( 今言うところの
( 「 昔の人は、これに耐えられた 」
( 私達も後進の方々も
( これを忘れてはいけません
( 忘れれば、永劫に浮かばれません

( 自分の因果で
( 運命の試練を受ける
( 経緯は不明でも致し方なし
( かも知れません

( 三年間
( イエスの身体に下ったキリストは
( 人の因果がないのに
( 人の身体の中で
( いわれなき苦しみを受けます
( 神々が経験する事のない
( 人特有の苦しみを
( 神ゆえ避けえたにもかかわらず
( それを受容なされます

( 飢えた虎に身を供養する
( まったくばかげた話しで
( そんなおとぎ話に何の意味が
( あるのでしょうか

( 「 昔の人は、これに耐えられた 」
( 昔の人は、不合理の苦しみ
( いわれなき死をどんと受け入れられた
( 起きてから就寝するまで
( 起きてる間四六時中
( これを忘れなかったら ・・・
( その一日はどんな一日になるでしょう

( 日常の苦しみは
( 十字架にかけられたとか
( 凍夜に立って朝を待つとか
( そんなドラマチックじゃないです
( もやもや、むにゃむにゃ
( 微妙な事が消えずに
( 少しずつ私達を苦しめます

( いつでもどこでも即
( 「 古人は、その苦しみに耐えられた 」
( そこに帰れたらどうでしょう
( 日常の気になる事は
( 確かに、konoyaro- ですが
( 古人が遭遇した場面に比べれば
( インスタばえしないなぁ、です

( 達磨大師を
( 二祖慧可大師を
( 道元禅師がお慕いなされる
( その意味が分かるような気がします
( キリスト・イエスのなされた事が
( 人類に多大な貢献を続けてるのも
( ここから察する事が出来るような
( 感じがします

( 日常のぜんぜん
( ドラマチックじゃない
( もやもや、むにゃむにゃな
( 微妙な粘り強い苦しみ
( これって些細な事に関連してるけど
( 確かに本の帯みたいだけど
( その本の内容って
( インスタばえ過ぎる直視出来ないような
( ドラマチックなものが背景にある
( のかも知れません

( ぜんぜんドラマチックじゃない
( 日常の障害ですが
( おとぎ話しのような古人の行持
( それを 「わすれざるべきなり」
( それぐらいの勢いで行かなければ
( 「 永劫の沈溺あるなり 」
( 浮かばれない、ようになってる

( でも、古人が
( そこに一人立ちえた
( という見本を示されたので
( それを忘れなければ
( それが「 守道神 」 となり
( 私達をその罠から救って下さる
( 私達が古人の行持に
( 思いをはせる時
( あるいは、十字架上のキリストに
( 思いをはせる時
( 私達はその圧倒的別格なる
( その強い精神とつながるから
( でしょうか
.