行 持 下 「 身毛の寒怕 」
- 2020/10/31
- 14:17
正法眼蔵 行 持 下
「 身毛の寒怕 」
遅明のよるの消息
はからんとするに
肝胆もくだけぬるがごとし
ただ身毛の寒怕 kan-ha
せらるるのみなり
( 夜明けの遅い厳冬の夜
( そこに見捨てられたように
( 二祖慧可大師が立っています
( すべてが砕け散るような
( そんな思いだったはずです
( 身が凍り付くのを
( 悲しく自分で見ておられた

( 身体が雪夜の中
( 凍り付いて死んでゆきます
( この身体って
( 一体何なんでしょうか?

( 死んだら土に帰る
( と言われてますが
( 生きてる時もこの身体って
( 土・物質? って言えるのでしょうか
( でも、冬飯の湯豆腐と
( 私達の身体はちょっと違う

( 湯豆腐と身体との違い
( それって
( 私達の心魂や精神が宿ってるから ・・
( だとすると、死とは何なのか
( これに一つの仮説が立てられます

( 死とは
( 私達の心魂や精神が宿り
( 関わった、土・物質との別れだと

( 私達の心魂や精神が宿ってない
( 床に落としちゃった湯豆腐は
( あっ、もったいない!と思えど
( 身体との別れとは違います

( 元々も、今々も
( 身体は土・物質に他ならない
( でも、土・物質なのに貴く思えます
( 何故なのか、疑問になります

( 芸術家が作品を
( 我が子のように大事に思う
( 仕事人がこれまでの仕事に
( 誇りを持ってる
( アスリートがこれまでの業績を
( 貴く思える
( それは自分自身ではないけど
( 「 自分そのもの 」 に感じます

( 坐禅、その聖十字で
( 自分を標本の蝶のようにします
( 一方を固定して
( シールを台紙から剥がすように
( 私達はほんの少し
( 身体から離れられます
( 離れて見る身体って、どう映るでしょう

( それは土・物質のよう、ではなく
( 自然の進化の中で
( 「 自然に 」 そうなった、でもなく
( 神々?と言うような
( 宇宙の神霊?のようなものが
( 崇高な理念を働きかけて創作された
( そう、感じるかも知れません

( 同時にその造形維持には
( 誕生前から綿々と続く
( 個人的な生きた思考
( 死んでない過去の記憶表象
( 業と呼ばれてるものが造形力として
( 土・物質の形成維持に関与してる
( それも明らかになるはずです

( これって不思議な反転展開です
( 身体の中に深く入ってると
( 身体の造形の背景は不明で
( この身を蝶の標本のようにして
( この身から離れると
( この身が今の自分を超えた
( 創造物である事が開示される

( 幾つになっても身体は
( 新陳代謝して刷新されてる
( としますと
( 今ここにある身体の造形って
( 宇宙の神霊?のようなものと
( 過去世からの不明の業
( この二つが今も、ここに働きかけてる
( ってなります

( 「 生かされてる 」
( これが明らかになる時
( 良いこと? が明らかになり
( 同時に手の負えないもの
( それも明らかになっちゃう
( これって、手の負えないものと
( 向き合える準備が整わなければ
( 良いものに 「 生かされる 」 も
( 開示されないだろう、とも読めます

( 坐禅で聖十字を描き
( 身体を蝶の標本のよう固定する
( まったくばかげたお話しです
( しかし、そのぐらいの勢いで
( 精神力を発揮しなければ
( 過去世から続く
( 生きた記憶表象と向き合えない

( 「 生かされてる 」
( これは美しい言葉です
( でもそれが現実として現れるには
( 悪霊?邪悪な不成仏霊?
( そんな身の毛も凍るような
( そんな存在に立ち向かい
( なだめ温め解放して上げる
( 火の玉のような精神力が必要とされる

( そして、そんなもの
( どこにあるんですか?です
( それは、坐禅の聖十字
( その中心を射らんとする時
( その火の一矢の中
( 朝日のように現れるだろう
( って展開します
( 達磨大師、二祖慧可大師
( その後の祖師方が
( 面壁坐禅を尊んだわけが
( ここに読み解けます
.