行 持 「 栽 樹 」
- 2020/08/22
- 18:04
行 持 「 栽 樹 」
臨済院慧照 e-syo 大師は
黄檗 o-baku の嫡嗣 tekisi なり
黄檗の会 e にありて三年なり
純一に辨道するに
睦州 boku-syu 陳尊宿の教訓によりて
仏法の大意を黄檗にとふこと三番するに
かさねて六十棒を喫す
( 臨済禅師 ~867 は
( 黄檗禅師 ~850 の法をつがれました
( 黄檗禅師に師事して三年
( 睦州 boku-syu という方にうながされ
( 仏法の大意を三度
( 黄檗禅師に尋ねられます
( しかし悉く鉄槌にて跳ね返されます

なほ励志 reisi たゆむことなし
大愚にいたりて大悟することも
すなはち黄檗、睦州 両尊宿の教訓なり
( しかしめげることなく
( 静謐なる坐禅を続けられます
( その後、大愚禅師の言葉で道をえますが
( その推移は、黄檗禅師と睦州禅師
( この二人の導きによるものです

祖席の英雄は臨済、徳山といふ
しかあれども、徳山いかにしてか臨済におよばん
( 祖師方の中でとくに傑出した人物
( それは臨済禅師と
( 徳山禅師といわれています
( しかし、臨済禅師はとびぬけています

まことに臨済のごときは
群に群せざるなり
そのときの群は
近代の抜群よりも抜群なり
( 当時の修行者は
( 今の抜群なる修行者よりも
( はるかに優れておられました
( 臨済禅師はその中で
( さらに抜群なる方でした

行業純一にして
行持抜群せりといふ
幾枚幾般の行持なりと
おもひ擬せんとするに
あたるべからざるものなり
( 臨済禅師の行持は
( その純一静謐において
( 抜群であったと言われています
( その行持の静謐さは
( 推察ですら近づけません

師、黄檗に在りしとき
黄檗とともに杉松を栽うるついでに
黄檗、師に問うて曰く
「 深山の裏に
許多 soko-baku の樹を栽えて
作麽( nanika-sen 」
師曰く、
「 一には山門のために境致となし
二には後人のために標榜となす 」
すなわち鍬をもって地をうつこと両下す
( 臨済禅師が黄檗禅師に
( 師事なされてた時のことです
( 共に杉や松を植林なされました
( 黄檗禅師が問われました
( この山奥に多くの木を植え
( どうなされるのですか
( 臨済禅師がお答えなられます
( 一つに山門の整備のためです
( 二つには、後世の人のため
( 求道の象徴とするためです
( そう述べられて、黄檗禅師と共に
( 鍬を振るわれました

黄檗、拄杖 syu-zyo を拈起 nenki して曰く
しかももかくの如くなりと雖も
汝 已に我が三十棒を喫しおわれり
師、嘘嘘声をなす
黄檗曰く
吾が宗、汝に到って大いに世に興らん
( 黄檗禅師は
( 杖 zyo を取って述べられます
( しかしあなたは、さんざん私から
( どやしつけられて来たではないですか
( 臨済禅師は恥ずかし気に
( ため息をつかれます
( 黄檗禅師は述べます
( 私が行って来たこの行持は
( あなたの代で
( 大いに世に広まることでしょう

しかあればすなわち
得道ののちも
杉松などをうゑけるに
てづからみづから
鍬柄をたづさへけると、しるべし
( このように
( 臨済禅師は道を得た後も
( 杉や松を植えるのに
( 自ら鍬をふるうことを厭いませんでした

吾宗到汝大興於世
これによるべきものならん
( 黄檗禅師の述べられた
( 「 私が行って来たこの行持は
( あなたの代で
( 大いに世に広まることでしょう 」
( とは
( 臨済禅師のこのような態度に
( よく表れています

栽松道者 sai-syo dosya の古蹤 ko-syo
まさに単伝直指なるべし
黄檗も臨済とともに栽樹するなり
( 栽松道者と呼ばれた
( 五祖 大満禅師の行跡を
( 臨済禅師も同じく歩まれました
( 黄檗禅師と臨済禅師は
( 共に植林をなされたのです

( 思いに拘泥凝縮されてしまう
( 思いがあれこれ飛翔しまくる
( 日常の「 ありのまま 」 と言えます
( 臨済禅師の「 ありのまま 」 は
( ちょっと異質な 「 ありのまま 」 です
( 臨済禅師の「 ありのまま 」 は
( 栽松 sai-syo
( 松をうえる、と言う行為の中に現れます
( 威儀を正し、心象に筋肉を付与します
( 筋力を得た心象を内十字に向けます
( すべては辺境静寂から生まれ
( 身十字中心、その静謐の中に消え入ります

( 身十字中心、その静謐の中に消え入る
( この感じが、新鮮な緑が
( 沈静し木質化してゆく過程で象徴されます
( すべては辺境静寂から生まれ
( 身十字中心、その静謐の中に消え入る
( この「 ありのまま 」 には
( 威儀行が先行します
( その威儀行には
( その「 威儀行に生きよう 」と言う
( 意志が先行します

( 臨済禅師の抜群たるゆえんそれは
( 「 威儀行に生きよう 」という
( その意志が抜群だったから
( 師である黄檗禅師から
( こてんぱんにされても
( 「 威儀行に生きよう 」 は不動です
( 師の評価や仏法とは?を理解する名誉
( これに左右されません
( なぜそう出来ちゃうのか

( 臨済禅師は
( 仏法とは? 悟りとは? 救いとは?
( これらを思いおこす必要がない
( 現物をお持ちです
( すべては辺境静寂から生まれ
( 身十字中心、その静謐の中に消え入る
( 臨済禅師は
( この 「 栽松 sai-syo 」 という
( 現物現金、生きたお金をお持ちです
( 「 お金持ち、喧嘩せず 」 です
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