ひとり明窓に坐する
- 2023/07/13
- 05:11
正法眼蔵 行持 ( 171 )
寒爐 kanro に炭なく、ひとり虚堂 kyodo にふせり
涼夜に燭 syoku なく、ひとり明窓に坐する
たとひ一知半解 hange なくとも、無為 mui の絶学 zetugaku なり
これ行持なるべし

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囲炉裏に炭はない
灯りをともす油はない
展開するのは、生の春夏秋冬
姿を変えるお月様
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南岳 nangaku 禅師
六祖慧能 eno 禅師 の坐禅に学ぶこと十五秋
その一日はどのようなものだったのでしょう
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八世紀、中国は唐の時代
宗教儀式あるいは文献解読(御経)
これに一日の大半が費やされた ?
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南岳 nangaku 禅師は
坐禅宗(禅宗)を生きられた方
論文作成を旨とする仏教学の教授にあらずで
一日の大半は
坐禅をなされておられたのでしょうか
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一日の大半は坐禅に費やされる
これと釈尊の教えはどう繋がるのでしょう ?
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「 ありのまま 」 の生の四季
お月様の満ち欠け
長時間これと向き合う
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南岳 nangaku 禅師がなされたことは
今の言葉なら愛情の発露だったと
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静かに坐し、坐禅の形を保つ
その実際は、閉じた坐禅の輪郭線を描き
その線巾を加速度的に細くしてゆく
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その身体的生理的対応物は
細長い息と深く静まってゆく心身
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細長い息と深く静まってゆく心身
この時、外の世界は
目の前は壁ですが、美しく崇高なものとして
立ち現れて来ます
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南岳 nangaku 禅師の在り様(坐禅)が
世界を美しく崇高なものとする
「 なんて美しいんだろう 素敵なんだろう 」
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「 なんて美しいんだろう 素敵なんだろう 」
受け止めて、深い感動をもって返礼とする
これは、洗練された高度な愛だと言えます
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スマホPCの高度情報受信
八世紀には既に、仏教の中核だったと
言えるかもしれません
文献(御経)研究がその中核になってたから
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「 なんて美しいんだろう なんて素敵なんだろう 」
受け止めて、深い感動をもって返礼とする
ここに釈尊の教えの文献的関連を見ることは難です
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「 なんて美しいんだろう なんて素敵なんだろう 」
受け止めて、深い感動をもって返礼とする
これが釈尊の愛の教えの到達点かもしれない
これはかなり実感をもって予感されたと推測されます
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