行 持 「 露堂々 」
- 2020/08/24
- 08:31
行 持 「 露堂々 」
雪峰 se´po 真覚大師義存和尚
かつて発心よりこのかた
掛錫 ka-syaku の叢林 so-rin および
行程の接待、みちはるかなりといへども
ところをきらはず、日夜の坐禅おこたることなし
雪峰草創の露堂々にいたるまで
おこたらずして坐禅と同死す
( 雪峰山の真覚大師
( 義存和尚は
( 道を求めようと発心して後
( 叢林 so-rin での探求
( そして日々の生活は
( 順風満帆であったとは言えません
( 道、遥かなり とはいえ
( どこにいても
( 静謐坐禅に親しみました
( そして名高い「 露堂々 」 に至るまで
( 怠ることなく坐禅と同死したのです

咨参 si-san のそのかみは
九上洞山、三到投子する
希世の辨道なり
行持の清厳をすすむるには
いまの人、おほく雪峰高行といふ
( 探求の時代
( 九回 洞山禅師 ( 807- 869 ) を訪ね
( 三回 投子和尚 ( 805- 914 ) を訪ねます
( 曖昧な理解をよしとしない
( 雪峰禅師の高潔さがよく表れています
( これが 「 雪峰高行 」 と呼ばれるものです

雪峰の昏昧 kon-mai は
諸人とひとしといへども
雪峰の伶俐 rei-ri は
諸人のおよぶところにあらず
これ行持のしかあるなり
いまの道人、かならず
雪峰の澡雪 so-setu をまなぶべし
( 雪峰の愚かさは人々と同じです
( 曖昧な理解をよしとしない
( その伶俐 rei-ri さは
( 人々の及ぶ所ではありません
( 雪峰の伶俐 rei-ri さは
( その行、静謐坐禅に由来します
( 思考スキームが
( 現実に即していない事を
( 坐禅が教えてくれます
( 訂正される事のない普通の思考は
( 普通の生活では何の問題にもなりません
( しかしそれを坐禅の中に持ち込むと
( 坐禅が成立しないよう
( 坐禅が出来ているからです

( 雪峰の澡雪 so-setu
( 雪を洗い清めるとはどう言う事でしょう
( 雪片、この結晶は
( 天球の星達が形成します
( 健全な雪の一生とは
( どのようなものでしょう
( 静寂から 「 一雪片 」 が生まれ
( そして、静謐の中へ消えゆきます
( 次次、静謐の中へと消えゆき
( 次次、静寂の彼方から
( 「 一雪片 」 は落ちて来ます
( 静謐への消解が
( 雪景色の継続を担保します

しづかに雪峰の諸方に参学せし
筋力 kin-riki をかへりみれば
まことに宿有霊骨 syuku-u rei-kotu の
功徳なるべし
( 雪峰禅師は
( 曖昧な理解で
( よしと、しませんでした
( 曖昧な理解で坐しても
( 坐禅がそれを許さないからです
( 心を観察すると
( つかみどころがなく
( 霞のように感じられます
( かたや
( 雪峰禅師の探求心には
( 筋肉のような筋力が感じられます
( 何故でしょうか

( 雪峰禅師は
( 九回 洞山禅師 ( 807- 869 ) を訪ね
( 三回 投子和尚 ( 805- 914 ) を訪ね
( どのような思考スキームを持って
( 坐ればいいのか常に修正研されています
( 漬物をつけて10年待つ
( そのような坐禅ではありません
( 商品開発後入念な
( 検証をなされる技術者のようです

( 思考も色彩も音響も
( 辺境の静寂から現れ
( 坐の身十字中心の静謐へ消えゆく
( これ以外の思考スキームで坐しても
( 違和感という反応で
( 坐禅が修正を促します
( 雪峰禅師は坐禅の声に
( よく耳を澄まされた、といえます
( 「 坐禅の神様が宿られてた 」
( とも言えますが
( 誰が坐しても坐禅は同じですから
( その微かな反応をないがしろにしなかった
( 雪峰禅師の向き合い方で
( 坐禅の神様が自己を開示したと言えます

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