行 持 下 「 千歳の一遇 」
- 2020/11/23
- 22:56
正法眼蔵 行 持 下
「 千歳の一遇 」
しかあればすなはち
四祖禅師は
身命 sin-myo を身命とせず
王臣 o-sin に親近 sin-gon
せざらんと行持せる行持
これ千歳 sen-zai の一遇 iti-gu なり
( このように
( 四祖 大医道信禅師が
( 命を脅されても
( 王族諸侯と交流しなかったのは
( 千年に一度しか
( 巡り会えないこの身体で
( 今何をするのか?
( 初祖達磨大師の第一命題
( 「 救迷情 」 の実際
( 釈尊から達磨大師と続いて来た
( 面壁九年、面壁坐禅
( 「 慧可断臂 dan-pi 」 の
( 一刀を振うことを第一義
( 己の使命とされたからです

( 「 慧可断臂 dan-pi 」
( この一刀を
( この身体に振うとは
( 何を意味するのでしょう
( 物理的な一刀ではない
( これは、明らかです
( この精神の一刀を身体に振るうとは
( 何を意味するのでしょう

( この身体が
( 単なる素材物質で創られてる
( これは明らかです [A]
( この鉱物とも言える素材に
( 植物が保持するような
( 生命形成力が浸透している
( これも明らかです [B]
( さらにその植物的なものに
( 動物達も保持する感情的
( 心魂的なものも共同している
( これも明らかです [C]

( 通常の自我は
( この三混成を
( 己の内容として生きてる
( そう感じられます
( 首をとられる、これは
( [A] の破綻を意味します
( それは通常の自我を構成してます
( これが否定されれば
( 通常の自我が動揺するのは
( 当然と言えます

( 四祖 大医道信禅師
( その自我は
( 通常の自我とは違う運用が
( なされています
( [A] [B] [C] を己の内容とは
( しません
( [A] [B] [C] を己が働きかける
( 対象とします

( 通常の自我は
( [A] [B] [C] と渾然一体です
( 四祖の自我は
( それらに対し超然と構えてる
( そのように見えます
( 四祖の自我は
( [A] [B] [C] に依存せず
( 独自に存在しえる
( 確かさを保持しています

( 二祖慧可大師の
( 「 慧可断臂 eka-danpi 」 の気合い
( これは、[A] [B] [C] との決別
( そのように見えます
( しかし、物理上の断臂 danpi なら
( 一度きりですが
( それを幾十年と継続されます
( [A] [B] [C] と決別し
( バイバイするのではなく
( 決別し、離れた位置から
( [A] [B] [C] へ働きかけます

( 四祖 大医道信禅師が
( [A] [B] [C] へ
( 外から働きかける別格の自我は
( 禅師の内面では
( どのような自我意識として
( 経験されるでしょう

( 四祖の自我は
( 「 慧可断臂 eka-danpi 」 の気合いゆえ
( 感情を担う [C] アストラル体を
( 凌駕し平伏させます
( [C] のアストラル体を凌駕した後
( 次の層である
( [B] のエーテル体へ浸透し
( そして、そのエーテル体の内壁を
( この別格の自我で満たします

( エーテル体は来たものを
( 素直に映しだす鏡です
( エーテル体の内壁は鏡なので
( エーテル体に至った別格の自我は
( すべてその中心へ反射されます
( こうして十字架が形成されます
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