行 持 下 「 行持はありける 」
- 2020/11/26
- 06:00
正法眼蔵 行 持 下
「 行持はありける 」
太宗 tai-so は
有義 yu-gi の国主なり
相見 syo-ken のもの
うかるべきにあらざれども
かくのごとく先達 sen-datu の
行持はありけると、参学すべきなり
( 唐の太宗皇帝は
( 文武に優れた名君です
( 面談を避ける理由はありません
( しかし、日々の責任を先とします
( 千年に一度、巡り会うこの身体で
( 釈尊から達磨大師へ続いてきた
( 面壁坐禅、「 救迷情 」 の実際
( 「 慧可断臂 dan-pi 」 の一刀を振るうこと
( これを何事より優先された
( この先達の行持こそ、学ぶべきです

( 心身一如
( 心と身体を一つにする
( 頭で生きずに、身体で生きる
( 心が身体をリードする
( 様々な教えがあります
( 人間は、「心」 と 「身体」 で出来てる
( 普段、考えもしませんが
( 何となく、そう考えているのかも知れません

( 「心」 を
( 「 自我 ( 精神 ) 」 と 「 心魂 (アストラル体) 」 に
( 「 身体」 を
( 「 植物的生命 (エーテル体) 」 と 「 純物質」 に
( このように人間を、自分自身の事ですが
( 二つでなく、四つの構成体として
( 自分と向き合うと、その違いを実感します

( 自分は四つの
( 構成要素から出来てる、としてみます
( A 「 自我 ( 精神 ) 」
( B 「 心魂 (アストラル体) 」
( C 「 植物的生命 (エーテル体) 」
( D 「 純物質 」

( これで坐禅に挑んでみます
( 二つで構成されてるなら
( 「 心で身体を造形する 」 となり
( 四つで構成されてる、なら
( A 「 自我 ( 精神 ) 」 を
( C 「 植物的生命 (エーテル体) 」 へ打つ
( となります

( A 「 自我 ( 精神 ) 」 を打ち込むのは
( D 「 純物質 」 としての身体
( それではなく
( 身体の形を形成している
( 「 植物性・恒常性 」 を的とする
( 文章にすると?ですが
( この方が十字を切りやすいし
( どんどん気合いが入ります
( 何故でしょうか

( 四つは十字に交わる
( と同時に
( 上から垂直に
( 打ち込まれる 「 自我 」 は
( 過去からの流れである
( C 「 エーテル体 」 の内壁に
( 己の鏡像をつくるから
.